坊っちゃん - 【五】 - 《64》
君|釣《つり》はあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寝《ね》ていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻烟草《まきたばこ》を海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪《ろ》の足で掻き分けられた浪《なみ》の上を揺《ゆ》られながら漾《ただよ》っていった。
「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発《ふんぱつ》してやってくれたまえ」と今度は釣にはまるで縁故《えんこ》もない事を云い出した。
「あんまり喜んでもいないでしょう」「いえ、お世辞じゃない。
全く喜んでいるんです、ね、吉川君」「喜んでるどころじゃない。
大騒《おおさわ》ぎです」と野だはにやにやと笑った。
こいつの云う事は一々|癪《しゃく》に障《さわ》るから妙だ。
「しかし君注意しないと、険呑《けんのん》ですよ」と赤シャツが云うから「どうせ険呑です。
こうなりゃ険呑は覚悟《かくご》です」と云ってやった。
実際おれは免職《めんしょく》になるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。
「そう云っちゃ、取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだが、わるく取っちゃ困る」「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。
僕も及《およ》ばずながら、同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、お互《たがい》に力になろうと思って、これでも蔭ながら尽力《じんりょく》しているんですよ」と野だが人間|並《なみ》の事を云った。
野だのお世話になるくらいなら首を縊《くく》って死んじまわあ。