坊っちゃん - 【九】 - 《164》

 おれはさっきから苦しそうに袴も脱《ぬ》がず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踴《はだかおどり》まで羽織袴で我慢《がまん》してみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。
するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご遠慮《えんりょ》なくと動く景色もない。
なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あの様をご覧なさい。
気狂会《きちがいかい》です。
さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、やご主人が先へ帰るとはひどい。
日清談判だ。
帰せないと箒を横にして行く手を塞《ふさ》いだ。
おれはさっきから肝癪《かんしゃく》が起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨《げんこつ》で、野だの頭をぽかりと喰《く》わしてやった。
野だは二三秒の間毒気を抜かれた体《てい》で、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。
お撲《ぶ》ちになったのは情ない。
この吉川をご打擲《ちょうちゃく》とは恐れ入った。
いよいよもって日清談判だ。
とわからぬ事をならべているところへ、うしろから山嵐が何か騒動《そうどう》が始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、このていたらくを見て、いきなり頸筋《くびすじ》をうんと攫《つか》んで引き戻《もど》した。
日清……いたい。
いたい。
どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横に捩《ねじ》ったら、すとんと倒《たお》れた。
あとはどうなったか知らない。
途中《とちゅう》でうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。

坊っちゃん - 【九】 - 《163》

 山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞《けんぶ》をやるから、三味線を弾けと号令を下した。
芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。
山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳烟《ふみやぶるせんざんばんがくのけむり》と真中《まんなか》へ出て独りで隠《かく》し芸を演じている。
ところへ野だがすでに紀伊《き》の国を済まして、かっぽれを済まして、棚《たな》の達磨《だるま》さんを済して丸裸《まるはだか》の越中褌《えっちゅうふんどし》一つになって、棕梠箒《しゅろぼうき》を小脇に抱《か》い込んで、日清談判|破裂《はれつ》して……と座敷中練りあるき出した。
まるで気違《きちが》いだ。

坊っちゃん - 【九】 - 《162》

 向うの方で漢学のお爺《じい》さんが歯のない口を歪《ゆが》めて、そりゃ聞えません伝兵衛《でんべい》さん、お前とわたしのその中は……とまでは無事に済《すま》したが、それから? と芸者に聞いている。
爺さんなんて物覚えのわるいものだ。
一人が博物を捕《つら》まえて近頃《ちかごろ》こないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。
よう聞いて、いなはれや――花月巻《かげつまき》、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可《はんか》の英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。

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