坊っちゃん - 【五】 - 《67》
別段おれは笑われるような事を云った覚えはない。
今日《こんにち》ただ今に至るまでこれでいいと堅《かた》く信じている。
考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励《しょうれい》しているように思う。
わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。
たまに正直な純粋《じゅんすい》な人を見ると、坊《ぼ》っちゃんだの小僧《こぞう》だのと難癖《なんくせ》をつけて軽蔑《けいべつ》する。
それじゃ小学校や中学校で嘘《うそ》をつくな、正直にしろと倫理《りんり》の先生が教えない方がいい。
いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世のためにも当人のためにもなるだろう。
赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。
単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。
清はこんな時に決して笑った事はない。
大いに感心して聞いたもんだ。
清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。
「無論|悪《わ》るい事をしなければ好いんですが、自分だけ悪るい事をしなくっても、人の悪るいのが分らなくっちゃ、やっぱりひどい目に逢うでしょう。
世の中には磊落《らいらく》なように見えても、淡泊なように見えても、親切に下宿の世話なんかしてくれても、めったに油断の出来ないのがありますから……。
大分寒くなった。
もう秋ですね、浜の方は靄《もや》でセピヤ色になった。
いい景色だ。
おい、吉川君どうだい、あの浜の景色は……」と大きな声を出して野だを呼んだ。
なあるほどこりゃ奇絶《きぜつ》ですね。
時間があると写生するんだが、惜《お》しいですね、このままにしておくのはと野だは大いにたたく。