坊っちゃん - 【五】 - 《56》
幾尋《いくひろ》あるかねと赤シャツが聞くと、六尋《むひろ》ぐらいだと云う。
六尋ぐらいじゃ鯛《たい》はむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。
大将鯛を釣る気と見える、豪胆《ごうたん》なものだ。
野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。
それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸を繰《く》り出して投げ入れる。
何だか先に錘《おもり》のような鉛《なまり》がぶら下がってるだけだ。
浮《うき》がない。
浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。
おれには到底《とうてい》出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますかと聞く。
糸はあまるほどあるが、浮がありませんと云ったら、浮がなくっちゃ釣が出来ないのは素人《しろうと》ですよ。
こうしてね、糸が水底《みずそこ》へついた時分に、船縁《ふなべり》の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食うとすぐ手に答える。
――そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何にもかからない、餌《え》がなくなってたばかりだ。
いい気味《きび》だ。
教頭、残念な事をしましたね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえ逃《に》げられちゃ、今日は油断ができませんよ。
しかし逃げられても何ですね。
浮と睨《にら》めくらをしている連中よりはましですね。
ちょうど歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙《みよう》な事ばかり喋舌《しゃべ》る。
よっぽど撲《なぐ》りつけてやろうかと思った。
おれだって人間だ、教頭ひとりで借り切った海じゃあるまいし。
広い所だ。
鰹《かつお》の一匹ぐらい義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸を抛《ほう》り込んでいい加減に指の先であやつっていた。