坊っちゃん - 【六】 - 《70》
そんな裏表のある奴から、氷水でも奢ってもらっちゃ、おれの顔に関わる。
おれはたった一|杯《ぱい》しか飲まなかったから一銭五|厘《りん》しか払《はら》わしちゃない。
しかし一銭だろうが五厘だろうが、詐欺師《さぎし》の恩になっては、死ぬまで心持ちがよくない。
あした学校へ行ったら、一銭五厘返しておこう。
おれは清《きよ》から三円借りている。
その三円は五年|経《た》った今日までまだ返さない。
返せないんじゃない。
返さないんだ。
清は今に返すだろうなどと、かりそめにもおれの懐中《かいちゅう》をあてにしてはいない。
おれも今に返そうなどと他人がましい義理立てはしないつもりだ。
こっちがこんな心配をすればするほど清の心を疑ぐるようなもので、清の美しい心にけちを付けると同じ事になる。
返さないのは清を踏《ふ》みつけるのじゃない、清をおれの片破《かたわ》れと思うからだ。
清と山嵐とはもとより比べ物にならないが、たとい氷水だろうが、甘茶《あまちゃ》だろうが、他人から恵《めぐみ》を受けて、だまっているのは向うをひとかどの人間と見立てて、その人間に対する厚意の所作だ。
割前を出せばそれだけの事で済むところを、心のうちで難有《ありがた》いと恩に着るのは銭金で買える返礼じゃない。
無位無冠でも一人前の独立した人間だ。
独立した人間が頭を下げるのは百万両より尊《たっ》といお礼と思わなければならない。