坊っちゃん - 【六】 - 《72》
あくる日は思う仔細《しさい》があるから、例刻より早ヤ目に出校して山嵐を待ち受けた。
ところがなかなか出て来ない。
うらなりが出て来る。
漢学の先生が出て来る。
野だが出て来る。
しまいには赤シャツまで出て来たが山嵐の机の上は白墨《はくぼく》が一本|竪《たて》に寝ているだけで閑静《かんせい》なものだ。
おれは、控所《ひかえじょ》へはいるや否や返そうと思って、うちを出る時から、湯銭のように手の平へ入れて一銭五厘、学校まで握《にぎ》って来た。
おれは膏《あぶら》っ手だから、開けてみると一銭五厘が汗《あせ》をかいている。
汗をかいてる銭を返しちゃ、山嵐が何とか云うだろうと思ったから、机の上へ置いてふうふう吹いてまた握った。
ところへ赤シャツが来て昨日は失敬、迷惑《めいわく》でしたろうと云ったから、迷惑じゃありません、お蔭で腹が減りましたと答えた。
すると赤シャツは山嵐の机の上へ肱《ひじ》を突《つ》いて、あの盤台面《ばんだいづら》をおれの鼻の側面へ持って来たから、何をするかと思ったら、君昨日返りがけに船の中で話した事は、秘密にしてくれたまえ。
まだ誰《だれ》にも話しやしますまいねと云った。
女のような声を出すだけに心配性な男と見える。
話さない事はたしかである。
しかしこれから話そうと云う心持ちで、すでに一銭五厘手の平に用意しているくらいだから、ここで赤シャツから口留めをされちゃ、ちと困る。
赤シャツも赤シャツだ。
山嵐と名を指さないにしろ、あれほど推察の出来る謎《なぞ》をかけておきながら、今さらその謎を解いちゃ迷惑だとは教頭とも思えぬ無責任だ。
元来ならおれが山嵐と戦争をはじめて鎬《しのぎ》を削《けず》ってる真中《まんなか》へ出て堂々とおれの肩《かた》を持つべきだ。
それでこそ一校の教頭で、赤シャツを着ている主意も立つというもんだ。