坊っちゃん - 【七】 - 《102》
「そうじゃろうがな、もし。若いうちは誰もそんなものじゃけれ」この挨拶《あいさつ》には痛み入って返事が出来なかった。
「しかし先生はもう、お嫁がおありなさるに極《きま》っとらい。私はちゃんと、もう、睨《ね》らんどるぞなもし」
「へえ、活眼《かつがん》だね。どうして、睨らんどるんですか」
「どうしててて。東京から便りはないか、便りはないかてて、毎日便りを待ち焦《こ》がれておいでるじゃないかなもし」
「こいつあ驚《おどろ》いた。大変な活眼だ」
「中《あた》りましたろうがな、もし」
「そうですね。中ったかも知れませんよ」
「しかし今時の女子《おなご》は、昔《むかし》と違《ちご》うて油断が出来んけれ、お気をお付けたがええぞなもし」
「何ですかい、僕の奥さんが東京で間男でもこしらえていますかい」
「いいえ、あなたの奥さんはたしかじゃけれど……」
「それで、やっと安心した。それじゃ何を気を付けるんですい」
「あなたのはたしか――あなたのはたしかじゃが――」
「どこに不たしかなのが居ますかね」
「ここ等《ら》にも大分|居《お》ります。先生、あの遠山のお嬢《じょう》さんをご存知かなもし」
「いいえ、知りませんね」
「まだご存知ないかなもし。ここらであなた一番の別嬪《べっぴん》さんじゃがなもし。あまり別嬪さんじゃけれ、学校の先生方はみんなマドンナマドンナと言うといでるぞなもし。まだお聞きんのかなもし」
「うん、マドンナですか。僕あ芸者の名かと思った」
「いいえ、あなた。マドンナと云うと唐人《とうじん》の言葉で、別嬪さんの事じゃろうがなもし」
「そうかも知れないね。驚いた」
「大方画学の先生がお付けた名ぞなもし」
「野だがつけたんですかい」
「いいえ、あの吉川《よしかわ》先生がお付けたのじゃがなもし」
「そのマドンナが不たしかなんですかい」
「そのマドンナさんが不たしかなマドンナさんでな、もし」
「厄介《やっかい》だね。渾名《あだな》の付いてる女にゃ昔から碌《ろく》なものは居ませんからね。そうかも知れませんよ」
「ほん当にそうじゃなもし。鬼神《きじん》のお松《まつ》じゃの、妲妃《だっき》のお百じゃのてて怖《こわ》い女が居《お》りましたなもし」
「マドンナもその同類なんですかね」
「そのマドンナさんがなもし、あなた。そらあの、あなたをここへ世話をしておくれた古賀先生なもし――あの方の所へお嫁《よめ》に行く約束《やくそく》が出来ていたのじゃがなもし――」
「へえ、不思議なもんですね。あのうらなり君が、そんな艶福《えんぷく》のある男とは思わなかった。人は見懸《みか》けによらない者だな。ちっと気を付けよう」
「ところが、去年あすこのお父さんが、お亡くなりて、――それまではお金もあるし、銀行の株も持ってお出《いで》るし、万事|都合《つごう》がよかったのじゃが――それからというものは、どういうものか急に暮し向きが思わしくなくなって――つまり古賀さんがあまりお人が好過《よす》ぎるけれ、お欺《だま》されたんぞなもし。それや、これやでお輿入《こしいれ》も延びているところへ、あの教頭さんがお出《い》でて、是非お嫁にほしいとお云いるのじゃがなもし」
「あの赤シャツがですか。ひどい奴《やつ》だ。どうもあのシャツはただのシャツじゃないと思ってた。それから?」
「人を頼んで懸合《かけお》うておみると、遠山さんでも古賀さんに義理があるから、すぐには返事は出来かねて――まあよう考えてみようぐらいの挨拶をおしたのじゃがなもし。すると赤シャツさんが、手蔓《てづる》を求めて遠山さんの方へ出入《でいり》をおしるようになって、とうとうあなた、お嬢さんを手馴付《てなづ》けておしまいたのじゃがなもし。赤シャツさんも赤シャツさんじゃが、お嬢さんもお嬢さんじゃてて、みんなが悪《わ》るく云いますのよ。いったん古賀さんへ嫁に行くてて承知をしときながら、今さら学士さんがお出《いで》たけれ、その方に替《か》えよてて、それじゃ今日様《こんにちさま》へ済むまいがなもし、あなた」
「全く済まないね。今日様どころか明日様にも明後日様にも、いつまで行ったって済みっこありませんね」
「それで古賀さんにお気の毒じゃてて、お友達の堀田《ほった》さんが教頭の所へ意見をしにお行きたら、赤シャツさんが、あしは約束のあるものを横取りするつもりはない。破約になれば貰うかも知れんが、今のところは遠山家とただ交際をしているばかりじゃ、遠山家と交際をするには別段古賀さんに済まん事もなかろうとお云いるけれ、堀田さんも仕方がなしにお戻《もど》りたそうな。赤シャツさんと堀田さんは、それ以来|折合《おりあい》がわるいという評判ぞなもし」
「よくいろいろな事を知ってますね。どうして、そんな詳《くわ》しい事が分るんですか。感心しちまった」
「狭《せま》いけれ何でも分りますぞなもし」