坊っちゃん - 【七】 - 《107》
しかし毎日行きつけたのを一日でも欠かすのは心持ちがわるい。
汽車にでも乗って出懸《でか》けようと、例の赤手拭《あかてぬぐい》をぶら下げて停車場《ていしゃば》まで来ると二三分前に発車したばかりで、少々待たなければならぬ。
ベンチへ腰を懸けて、敷島《しきしま》を吹かしていると、偶然《ぐうぜん》にもうらなり君がやって来た。
おれはさっきの話を聞いてから、うらなり君がなおさら気の毒になった。
平常《ふだん》から天地の間に居候《いそうろう》をしているように、小さく構えているのがいかにも憐《あわ》れに見えたが、今夜は憐れどころの騒《さわ》ぎではない。
出来るならば月給を倍にして、遠山のお嬢さんと明日《あした》から結婚《けっこん》さして、一ヶ月ばかり東京へでも遊びにやってやりたい気がした矢先だから、やお湯ですか、さあ、こっちへお懸けなさいと威勢《いせい》よく席を譲《ゆず》ると、うらなり君は恐《おそ》れ入った体裁で、いえ構《かも》うておくれなさるな、と遠慮《えんりょ》だか何だかやっぱり立ってる。
少し待たなくっちゃ出ません、草臥《くたび》れますからお懸けなさいとまた勧めてみた。
実はどうかして、そばへ懸けてもらいたかったくらいに気の毒でたまらない。
それではお邪魔《じゃま》を致《いた》しましょうとようやくおれの云う事を聞いてくれた。
世の中には野だみたように生意気な、出ないで済む所へ必ず顔を出す奴もいる。
山嵐のようにおれが居なくっちゃ日本《にっぽん》が困るだろうと云うような面を肩《かた》の上へ載《の》せてる奴もいる。
そうかと思うと、赤シャツのようにコスメチックと色男の問屋をもって自ら任じているのもある。
教育が生きてフロックコートを着ればおれになるんだと云わぬばかりの狸《たぬき》もいる。
皆々《みなみな》それ相応に威張ってるんだが、このうらなり先生のように在れどもなきがごとく、人質に取られた人形のように大人《おとな》しくしているのは見た事がない。
顔はふくれているが、こんな結構な男を捨てて赤シャツに靡《なび》くなんて、マドンナもよっぼど気の知れないおきゃんだ。
赤シャツが何ダース寄ったって、これほど立派な旦那様《だんなさま》が出来るもんか。