坊っちゃん - 【八】 - 《137》
「それはますます可笑《おか》しい。
今君がわざわざお出《いで》になったのは増俸を受けるには忍《しの》びない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」
「解しかねるかも知れませんがね。
とにかく断わりますよ」
「そんなに否《いや》なら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変《ひょうへん》しちゃ、将来君の信用にかかわる」
「かかわっても構わないです」
「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。
よしんば今一歩|譲《ゆず》って、下宿の主人が……」
「主人じゃない、婆さんです」
「どちらでもよろしい。
下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀君の所得を削《けず》って得たものではないでしょう。
古賀君は延岡へ行かれる。
その代りがくる。
その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。
その剰余《じょうよ》を君に廻《ま》わすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。
古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。
新任者は最初からの約束《やくそく》で安くくる。
それで君が上がられれば、これほど都合《つごう》のいい事はないと思うですがね。
いやなら否《いや》でもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」