坊っちゃん - 【八】 - 《138》
ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。
途中《とちゅう》で親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽど厭《いや》になっている。
だから先がどれほどうまく論理的に弁論を逞《たくまし》くしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。
議論のいい人が善人とはきまらない。
遣り込められる方が悪人とは限らない。
表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中まで惚《ほ》れさせる訳には行かない。
金や威力《いりょく》や理屈《りくつ》で人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査《じゅんさ》でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。
中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。
人間は好き嫌いで働くものだ。
論法で働くものじゃない。
「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。
考えたって同じ事です。
さようなら」と云いすてて門を出た。
頭の上には天の川が一筋かかっている。