坊っちゃん - 【三】 - 《38》
一週間ばかりしたら学校の様子もひと通りは飲み込めたし、宿の夫婦の人物も大概《たいがい》は分った。
ほかの教師に聞いてみると辞令を受けて一週間から一ヶ月ぐらいの間は自分の評判がいいだろうか、悪《わ》るいだろうか非常に気に掛《か》かるそうであるが、おれは一向そんな感じはなかった。
教場で折々しくじるとその時だけはやな心持ちだが三十分ばかり立つと奇麗《きれい》に消えてしまう。
おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。
教場のしくじりが生徒にどんな影響《えいきょう》を与《あた》えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を呈《てい》するかまるで無頓着《むとんじゃく》であった。
おれは前に云う通りあまり度胸の据《すわ》った男ではないのだが、思い切りはすこぶるいい人間である。
この学校がいけなければすぐどっかへ行《ゆ》く覚悟《かくご》でいたから、狸《たぬき》も赤シャツも、ちっとも恐《おそろ》しくはなかった。
まして教場の小僧《こぞう》共なんかには愛嬌《あいきょう》もお世辞も使う気になれなかった。
学校はそれでいいのだが下宿の方はそうはいかなかった。
亭主が茶を飲みに来るだけなら我慢もするが、いろいろな者を持ってくる。
始めに持って来たのは何でも印材で、十《とお》ばかり並《なら》べておいて、みんなで三円なら安い物だお買いなさいと云う。
田舎巡《いなかまわ》りのヘボ絵師じゃあるまいし、そんなものは入らないと云ったら、今度は華山《かざん》とか何とか云う男の花鳥の掛物《かけもの》をもって来た。
自分で床《とこ》の間《ま》へかけて、いい出来じゃありませんかと云うから、そうかなと好加減《いいかげん》に挨拶《あいさつ》をすると、華山には二人《ふたり》ある、一人は何とか華山で、一人は何とか華山ですが、この幅《ふく》はその何とか華山の方だと、くだらない講釈をしたあとで、どうです、あなたなら十五円にしておきます。
お買いなさいと催促《さいそく》をする。
金がないと断わると、金なんか、いつでもようございますとなかなか頑固《がんこ》だ。
金があつても買わないんだと、その時は追っ払《ぱら》っちまった。
その次には鬼瓦《おにがわら》ぐらいな大硯《おおすずり》を担ぎ込んだ。
これは端渓《たんけい》です、端渓ですと二|遍《へん》も三遍も端渓がるから、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を始め出した。
端渓には上層中層下層とあって、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、この眼《がん》をご覧なさい。
眼が三つあるのは珍《めず》らしい。
溌墨《はつぼく》の具合も至極よろしい、試してご覧なさいと、おれの前へ大きな硯を突《つ》きつける。
いくらだと聞くと、持主が支那《しな》から持って帰って来て是非売りたいと云いますから、お安くして三十円にしておきましょうと云う。
この男は馬鹿《ばか》に相違《そうい》ない。
学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責《こっとうぜめ》に逢《あ》ってはとても長く続きそうにない。