坊っちゃん - 【三】 - 《39》
ある日の晩|大町《おおまち》と云う所を散歩していたら郵便局の隣《とな》りに蕎麦《そば》とかいて、下に東京と注を加えた看板があった。
おれは蕎麦が大好きである。
東京に居《お》った時でも蕎麦屋の前を通って薬味の香《にお》いをかぐと、どうしても暖簾《のれん》がくぐりたくなった。
今日までは数学と骨董で蕎麦を忘れていたが、こうして看板を見ると素通りが出来なくなる。
ついでだから一杯食って行こうと思って上がり込んだ。
見ると看板ほどでもない。
東京と断《こと》わる以上はもう少し奇麗にしそうなものだが、東京を知らないのか、金がないのか、滅法《めっぽう》きたない。
畳《たたみ》は色が変ってお負けに砂でざらざらしている。
壁《かべ》は煤《すす》で真黒《まっくろ》だ。
天井《てんじょう》はランプの油烟《ゆえん》で燻《くす》ぼってるのみか、低くって、思わず首を縮めるくらいだ。
ただ麗々と蕎麦の名前をかいて張り付けたねだん付けだけは全く新しい。
何でも古いうちを買って二三日《にさんち》前から開業したに違《ちが》いなかろう。
ねだん付の第一号に天麩羅《てんぷら》とある。
おい天麩羅を持ってこいと大きな声を出した。
するとこの時まで隅《すみ》の方に三人かたまって、何かつるつる、ちゅうちゅう食ってた連中《れんじゅう》が、ひとしくおれの方を見た。
部屋《へや》が暗いので、ちょっと気がつかなかったが顔を合せると、みんな学校の生徒である。
先方で挨拶《あいさつ》をしたから、おれも挨拶をした。
その晩は久《ひさ》し振《ぶり》に蕎麦を食ったので、旨《うま》かったから天麩羅を四杯|平《たいら》げた。