坊っちゃん - 【六】 - 《83》
一人足りない。
一人不足ですがと考えていたが、これは足りないはずだ。
唐茄子《とうなす》のうらなり君が来ていない。
おれとうらなり君とはどう云う宿世《すくせ》の因縁かしらないが、この人の顔を見て以来どうしても忘れられない。
控所へくれば、すぐ、うらなり君が眼に付く、途中《とちゅう》をあるいていても、うらなり先生の様子が心に浮《うか》ぶ。
温泉へ行くと、うらなり君が時々|蒼《あお》い顔をして湯壺《ゆつぼ》のなかに膨《ふく》れている。
挨拶《あいさつ》をするとへえと恐縮《きょうしゅく》して頭を下げるから気の毒になる。
学校へ出てうらなり君ほど大人しい人は居ない。
めったに笑った事もないが、余計な口をきいた事もない。
おれは君子という言葉を書物の上で知ってるが、これは字引にあるばかりで、生きてるものではないと思ってたが、うらなり君に逢《あ》ってから始めて、やっぱり正体のある文字だと感心したくらいだ。